かきや 鳥天丼

東京 新橋 蕎麦と天丼 かきや 鶏天丼

芝商店街の理髪店

「新橋の富士そばだったところがリニューアルした天ぷら屋、意外に安くて美味しいですよね。」

髪を切りながら芝商店街の理髪店のおっちゃんが語りかけてきた。ああ、その店はわかる。もうやんカレーの並びの店であろう。

私も以前から気にはなっていたが、一見天ぷら専門店のように見えて、実は「富士そば」の新しい店舗形態であると言うことがわかったので、なんだチェーン店の天ぷらかと興味が失せてしまったのである。

だが、おっちゃんはリズムよく調髪しながら言い放った。

「ゆで太郎と並んでこの店は安くてうまいですよ。」

沖縄に住んでいる私だが、髪は芝商店街のこの店でカットすることにしている。このおっちゃんは中国にとても興味があって歴史も詳しい。行くたびに沖縄や中国の話で盛り上がってしまうのだ。

おっちゃんによれば、その昔、芝や芝浦の辺りは非常にガラの悪い地区だったそうで、在日中国人や在日朝鮮人、そして日本人の悪どものたまり場だったと言う。

そこでやんちゃをしていた若者たちが大人になり、それぞれの国の機関における要職を務め、いつの間にか彼らは政府に顔がきく存在になっていたのだそうな。

蕎麦と天丼 かきや

土曜日午前10時、浜松町界隈では朝食を食べたいと思うような店がなかったので、郵便局に用事があることもあり、新橋まで来た。いい機会だ、かきやに行ってみよう。

店頭の食券機と対峙すること3分。

さて、何を食べようか。

いまいちインスピレーションが働かない。やっぱり別の店にしようとスルーしたものの、新橋駅界隈を徘徊しても、他に選択肢は牛丼と立ち食いそばしかなかった。

ラーメン屋も開いていたが、朝ラーはどうかと思い、再びこの店に戻ってきた。ここしかないのだ。覚悟を決めて天丼を食べることにした。

しかしまだ問題は解決していない。

海老天を食べたくない、かといって野菜では物足りない。他に何が…ん?これだ。第三の選択肢があるではないか!

鶏天、いわゆる「かしわ天」だろう。

海老天丼にはエビ以外の天ぷらもご飯の上に載っている。北海道長沼の赤字丼じゃあるまいし、エビ天だけ5本だけなんて贅沢な店はごくごく少数派のはずだ。

この天丼の定理を鳥天丼に当てはめれば、同様に野菜天ぷらが含まれているに違いないことが推察できる。私の考えは何か間違っているだろうか。

よって朝食は「鳥天丼(単品)」に決定した。

店に入って席を陣取り、厨房内の女性に食券を渡した。セルフでお冷を汲んでから自席に戻る。

蕎麦屋と違いなかなか天丼は出てこない。厨房からはジャーと天ぷらを揚げる音がする。注文を受けてから調理を始めている。

これは熱々の天丼が食べられることを意味している。

スーパーの弁当ならまだしも、お店で湿った冷たい天ぷらを温め直しただけの天丼など食べたくない。若い頃にわずかなお小遣いで何度か食べた品川丼を彷仏とさせるような料理を五十路になって食べたいとは思わないのだ。

店内は落ち着いた内装、モダンジャスが静かに流れる土曜日の朝なのだ。

鶏天丼

しばらくして私の番号が呼ばれた。天丼を取りに行く。そこで見たかしわ天は少し焦げている。天ぷらと言うよりは唐揚げに近いような気がする。

丸亀製麺にも「かしわ天」があるが、あちらは間違いなく天ぷらだ。対してこの店では外国で和食店に入ったときに出会った料理のような印象を受けた。

例えばうな重野菜炒め。

その名からお重によそったご飯の上にうなぎと野菜炒めが同居しているなど、誰が想像できようか。そんな行為をする日本人はおそらくいないはずだ。明らかに日本文化を知らぬ者の妄想なのだ。

同様にサンマーメンは醤油ラーメンさんま塩焼きトッピングではない。バカじゃないだろうか。

注文してから揚げた天ぷらは熱々だ。安くて柔かい鶏むね肉を薄くスライスしてある。だが、まさかの誤算だ。天ぷらがすべて肉、全部鶏。栄養バランスという発想はないのだろうか?

カリッと揚がってしつこく無い。ライトな天ぷらだ。鶏むね肉だから当たり前か。だが、こいつは唐揚げみたいだ。天ぷらの衣とは思えぬ。蕎麦屋でもなく、天ぷら専門店でも無い、第三の形態か?

ご飯はいい。硬めで一粒が立っている。

ネギ塩タレで食べてみる。しょっぱすぎる。かなりのボリュームだ。ねぎ塩タレだけや鶏天だけでは味がシンプルすぎる。

紅生姜で味変だ。七味をかければ風味ががんと広がる。こっちの方が断然いい。

ごちそうさま

このボリュームで490円、セットにしなくて正解であった。

トイレは温水洗浄便座。安くてボリュームがあるのはいいが、五十路にはきつすぎた。栄養バランスなど顧みずとも問題ない、若者向けの一品であった。

また一つ、朝食の選択肢が減ってしまったのだった。いや、鶏天丼以外を選択しなかった私が敗れただけなのだ。もういい、いずれにしても新橋で朝食を摂ろうとした私が間違っていたのだと、またもや思い知らされたのであった。

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