大門ランチ
会社から浜松町駅に行く間にランチを食べるには、浜松町駅周辺か、大門駅周辺、もしくは首都高と大門の間の飲食店エリアの三箇所で食べることになる。特に将監橋から大門までには数多くの店があるのだが、食指の動く店が少ない。この界隈をウロウロとランチを求めて彷徨うのは、これが初めてではない。
今までに何度も繰り返してきたことだ。これが人生だ。
今日もまた同じことを繰り返す。会社から大門駅に行くまでにランチを済ませなければならない。食べるものを決めねばならぬ。
昨晩は和食で肉だ。今晩はドイツ料理である。ならば洋食は無い。肉も避けたい。残るは魚だ。とすれば中華もない。鶏肉も却下だ。
これらから導き出される答えは「和食で魚」。
まだ問題がある。焼き魚か煮魚か、それが問題だ。選択肢に干物と刺身は無い。東京で刺身は食べたく無い。干物も自宅で食べられる。おお、そうだ。将監橋を越えたところに、いくつか魚屋さんがあったはずだ。そこはどうか。
まず、一軒目。青魚専門店。なぜランチは鳥唐揚げなのだ。青魚専門店が聞いて呆れるわ!次!
ここは以前から入ってみたかった店だ。魚が食えるはずだが…鯖塩焼きにかます塩焼き。
えー。
心ときめかない。自宅で食べられないものを食べたい。残念だ。次の機会にしよう。
大門駅に向かって歩く。
- ビストロ、違う。
- カレー、また今度。
- 中華、違うっちゅーねん!
大門駅 纏寿司
ん?ここも魚か。紅ジャケ、銀ダラ、刺身か。普通だな。
ん?いや、まて。なんだ、この値段は。ほとんど1500円以上するではないか。ということは、店内は混んでいないと思われる。この値段でどんな魚が食えるのか。刺身も悪くないかもしれぬ。
よし、ここに入ろう。
メニュー
店に入ると入口近くのテーブル席に座った。私の眼前には再びランチメニューが対峙した。
刺身か焼き物か、それが問題だ。
東京では刺身など食わぬと豪語しておきながら、目の前にして心動く、この体たらく。さあ、どうする、どうする?!
「すいません、西京焼きください。」
そう、ランチメニューの看板を見て、最初に心惹かれたのは西京焼きだ。ならば初心貫徹。西京味噌の甘みと、脂ののった、少し焦げた銀ダラの切り身の味が脳裏をよぎる。
ああ、早く食べたい。どんなものが出てくるのだろうか。その答えは数分後に出た。隣の客が同じものを注文していた。
でかっ!
これが私の前にも出てくるのか。とても楽しみだ。
銀だら西京焼きランチ
まずは漬物と酢の物が出てきた。隣の客がお茶で口の中をゆすぐ音がする。ゾッとする。背中がぞわぞわする。気持ち悪い。やめてくれ。早く出て行ってくれ。
気がつけばテーブル席の客のほとんどが銀ダラを食べていた。一人だけちらし寿司を食べているが、銀ダラと比べると霞んでしまう。
だから、茶で口をゆすぐのをやめてくれっ!早く出て行けっ!願いが通じたのか、隣人はやがて席を立ち、帰っていった。ようやく安寧が訪れた。あの音を聴きながら飯を食わされかもしれないと思うと、この場から逃げ出したい衝動に駆られてしまいそうだ。
さあ、早く来い。
ワカメの酢の物、でかくて分厚い。ほうれん草の御浸しを食べているかのようだ。ジャコも塩気控えめ。
ようやく私の銀ダラがやってきた。うん、でかい。ホッケのようだ。普通の定食ならばこの半分しか身がないだろう。それをちまちまと食べる。なんだか惨めな気分になる。が、これはどうだ。これだけ豪快だと、でっかい身をご飯と一緒にガッツリ食べられる。幸せな気分になる。
味噌汁のノリがうまい。銀ダラは脳内シミュレーション通りの味だ。焦げ目が見た目にも香りでも食欲をそそる。脂がのった銀ダラと西京味噌の甘みが口の中に広がる。それをしっかりと受け止める白飯。
昆布の佃煮は自家製か。薄味だ。はじかみがわりのガリも悪くない。
下側の皮は厚めだが、裏側が完全に焦げていた。旨味より焦げが勝る。残念。魚の旨味は皮目に集まっているというのに。しかし、もう半分は問題ない。薄い皮だが焦げることなく、身と一緒に食べればうまさ倍増である。浅漬けも私好みの薄味でいい。
少し変わった丼なのか、茶碗なのか、いや、小鉢ではないかと見まごう容器にガッツリと盛られたご飯もボリューム十分。
ああ、美味かった。食後の茶をすする私の耳に聞こえてきた隣のハイミセスお二人の会話。
「あのね、脂肪が筋肉に変わるって言うでしょ?」
変わりません。脂肪が落ちて筋肉がつくだけです。
「ほら、筋肉って重いって言うじゃない。脂肪の二倍の重さだから。」
1.2倍です。
心の中で激しく突っ込みつつ、表向きは平静を保ちながら、食事を終わらせた。会計を済ませて店を出る。
たまにはこんな贅沢もいいかな。
数年前に五十路となったバツイチ男性。昨日は沖縄、今日は北海道、明日は四国…出張三昧の日々、三年間で制覇した店は千店舗を超えた。日本全国及び海外での食事を記録したブログである。五十路とは本来「五十歳」を意味するが、現代社会では「50代」と誤った認識が定着している。それにあやかりブログのタイトルを名付けた。(詳しく読む…)