ラーメンくどう チャーシュー麺の中

青森駅 ラーメンくどう チャーシュー麺

おやつタイム in 青森駅前

小腹を空かして街中を歩いていると一見の喫茶店が目に入った。珈琲店だ。残念ながら私はコーヒーを嗜む趣味を持っていない。ケーキを食べることも考えたが、何か違う気がした。

まして、五十路のおっさんが1人で女子の群れの中に入り、ケーキを食べながらティータイムを過ごすのは、周囲の視線が痛くて快感になってしまう。

喫茶店を通り過ぎたところに駐車場があった。その奥まったところに赤い看板のラーメン屋がある。とても小さな店のようだ。

ラーメン。

先ほども煮干しラーメンで有名な店の前を通った。よく空港で売っている、紺色のパッケージの袋ラーメンだ。食べようかとも考えたのだが、やめた。塩分の取りすぎは怖いのだ。

だからラーメンは選択しない。

そう思いなおして通り過ぎようとした時、店の中からガラガラとキャリーバックを引きずる、私と同世代の男性が店から出てきた。

明らかに地元民ではない。

出張か旅行かわからないが、もしかしたらこの店で食べるためだけに青森まで来たのかもしれない。これから新幹線か飛行機で青森を発つ前に、ぜひともこの店でラーメンを食べたいと、わざわざ足を運んだに違いない。

いったいどんな店なのだだ。急に興味が湧きあがってきたのでネットで検索してみた。どうも非常にシンプルな煮干醤油ラーメンの店のようだ。

しかも薄味と書いてある。

なるほど。これなら私でも食べられるかもしれない。わかっているのだ、ラーメンの塩分のほとんどはスープに含まれていることは。麺やチャーシュー、メンマに含まれる量はわずかであること。そう、誰かも言っていた。

飲まなければどうということはない。

そう考えを切り替えると、吸い込まれるように私は赤い看板の店にホーム出た。

ラーメンくどう

ドアには食券機のボタンの配置が掲示通知されていた。これは嬉しい、いきなり券売機の前に立つのは私のような小心者には大変苦行なのである。

現在時刻は14時、ランチタイムを過ぎている上に、コロナウィルスの騒動で人もまばらな時間帯であれば、いきなりぶっつけ本番で食券を買っても時間的猶予は許されるだろう。

そうであっても、事前に設計図を閲覧して脳内シミレーションができる状況は、理系の人間にとって大変好ましいことだ。

さらに嬉しいことに、この店は麺の量が選べる。徳大、大、中、小。特に中は一人前よりも少ないと書いてある。

これだ。

小腹の空いた今の私の適量はまさに中である。小ではおそらく充分に満足できず、再び人が少ない青森市街をウロウロとゾンビのようにさまようことになるだろう。そんなウォーキングデッドは嫌だ。

早くホテルにチェックインして楽になりたい。

だがせっかくならば麺とスープだけではなく、肉も堪能したい。だからチャーシュー麺の中なのだ。

シミレーションは完了した。ドアを開け券売機に相対する。迷わず650円を入れ、チャーシュー麺中のボタンを押す。よし、スムーズに発券された。食券を厨房から出てきたおばちゃんに渡す。

入口は狭いのに店内はかなり広い。しかもお一人様の客が多いのだろうか、壁際のカウンターに店内中央にはU字型のカウンター。そしてテーブル席。

沖縄の吉野家のようなテーブルレイアウトである。

店内は明るく清潔感がある。壁には油がこびりつき、床には脂が染み込んで鈍く光る茶色とはなっていない。白くて清潔だ。これが今どきのラーメン店だ。

厨房はおばちゃん達しかいない。フロアも厨房のおばちゃんたちが交代で担当している。

メニューは麺とトッピングの組み合わせしかないので、一見、料理が多いように見えるが、実はそうでもない。まさに組み合わせによるパターン増幅の一例である。

カウンターの上には調味料が胡椒と七味だけ。水はセルフだ。さあ、ラーメンよ、やってこい。店内にはテレビのワイドショーの声が静かに響いている。

チャーシュー麺 中

おばちゃんがラーメンを運んできた。確かに非常にシンプルだ。昔ながらのラーメンを思わせる、白い丼に茶色いスープ、黄色いちぢれ麺、ほのかにピンク色をしたチャーシュー。そして濃いベージュ色の細いメンマだ。スープには熱で透明化した薄切りの薬味ネギが浮いている。

見た目はまさに昭和だ。東京の福寿を彷仏とさせるビジュアルである。熱々のスープからは湯気が立っている。メガネが曇る。

スープ

蓮華でスープすくい一口飲む。ネットに書いてあった通りだ。ほんのりと甘く薄塩仕立ての煮干しスープ。魚の臭みは全くない。

昔の中華屋の醤油ラーメンは、なんだか変なえぐみというか、癖というか、いやな味わいがしてそれが嫌いだった。チャーハンについてくる、ネギのついたスープは大嫌いだった。

だがこのスープは、昭和のラーメンからえぐみを取り除き、令和の時代にふさわしい洗練された味わいである。まさに清いスープ、清湯(チンタン)である。

昨今は強烈に濃厚なダシに背脂を溶かし、麺にべったりと吸着させ、うまみに負けないだけの塩気を入れたインパクトのあるスープが主流である。

確かにあれば一口目はうまい。だいたい3分の1位までは勢いで食べてしまう。だが、途中から飽きる。味変が必要となる。その上、体に悪い。

だがこの店は細いちぢれ麺、正統派の伝統的ラーメンである。ボソボソ感はなくコシもある。伸びもある。これが昭和との違いか。スープもそこそこ絡むが、あっさりとしていて背油などが浮いているわけでもないので、まさに蕎麦と返しの関係のようだ。

メンマ

細めのメンマは見た目と違い薄味だ。硬くなく、適度な柔らかさでシャクシャクと心地よい食感がする。それほどうまいものではないが、ないと寂しい名脇役である。

チャーシュー

豚の赤身を用いたあっさりとした味わい。肉の旨味をきちんと生かしている。余計な味付けはしていない、脂の甘みにも頼っていない。水分をしっかりとでき、旨味を凝縮させ、適度な暑さにスライスしてある。

柔らかくがないが堅いわけでもない。まさに肉の食感と魅力を味わえる調理と最適な厚めのスライスの組み合わせだ。

これがあっさりスープと麺と相まって、ネギの甘みが変わり、素晴らしいマリアージュを実現する。素晴らしい。

四身一体だ。

だがアニメの定番は3体か5体だ。昔のアニメで3体が合体するロボットものと言えばゲッターロボだ。これはオリジナルであるが、その後の作品では5体だと作画が厳しくて、スケジュールや予算がついてこないといった、夢や希望もなければ、予算も時間もないと言う、大人の都合で決められる現実があった。

その代表例が、まさにガンダムの前身とも言える、最終回がとんでもないどんでん返しで有名なザンボットスリーだ。

ちなみに、ザンボットスリーの監督とキャラクターデザインはガンダムと同じく富野由悠季と安彦良和である。

胡椒

そうか、胡椒だ、ペッパーだ。机の上には大きなギャバンの缶が置かれているじゃないか。これをラーメンにふりかける。軽く混ぜ食べる。

胡椒の香りが鼻を抜け、スープと麺の魅力を一段と引き立っている。ああ、胡椒。なんて素晴らしい調味料だろうか。

その昔、金よりも高く取引され、胡椒をめぐって戦争まで起きたと言う。ヨーロッパの金持ちは、その金にものを言わせて胡椒を買い、惜しみなく料理に使用することで財力を顕示したのだろう。その裏ではまさに血で血をぬぐう壮絶な奪い合いが世界規模で行われていたのだ。

まさにブラッディダイヤモンドならぬブラッディペッパーである。なんとなくその気持ちがわかるような私が今ここにいる。

全てを食べ終えた。もちろんスープを飲みたい、いや、飲み干したい欲求は抑えた。今は素面だ。酒を飲んでいない。

これが深夜の締めのラーメンならば、わずかな理性は完全に消失し、94.76%の確率でスープを残さず飲みきっているに違いない。

いや、それはないか。

酒を飲んで腹が減っているが、胃の中は液体で満たされているから、スープを飲み干すだけの空き容量が無いはずだ。録画が溜まった我が家のハードディスクレコーダーと同じ状態なのだ。

ごちそうさま

ラーメンを食べ終えて気づいた。厨房にはおばちゃんしかいない。

誰かがスープを仕込み、麺は製麺所から取り寄せ、チャーシューも仕込んでおいたものをおばちゃんが機械でスライスする。ネギは機械で薬味切りができる。メンマもどこかで特注するか自分で作れば良いだろう。

調理は麺を指定時間だけ茹で、指定された量のスープを丼に入れ、盛り付けるだけだ。まさにセントラルキッチンの要領である。

ラーメンは大量生産に非常に向いている。

セントラルキッチン方式ならばレシピの秘密保持も実現でき、安い労働力で大量の客に素早く料理を供給できる。

客が食べる終える時間も短いため客の回転も速い。まさにフランチャイズにうってつけだが、それだけに競争も激しい。

ラーメン屋の店主にだけはなりたくないものだ。

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